一円切手
「前島密」一円切手で有名な人。
 → 「前島密」は生き残った!! 普通切手のデザイン刷新、1円は47年ぶりマイナーチェンジ
日本郵便は12日、1円から千円までの普通切手12種類でデザインを刷新すると発表した。1円切手は前島密に変わらず。
この人が晩年を三浦半島の西海岸で過ごし、お墓も芦名にあると知ってる人は少ないかも知れません。

130518前島密の墓@佐島1
前島は晩年を別荘「如々山荘」で過ごした。
この別荘は三浦半島西海岸にある浄土宗寺院、浄楽寺の境内にあった。

1853(嘉永6)年、浦賀沖にペリー提督の黒船が現れた時、密は19歳の若者だった。黒船を自分の目で見たい密は、幕府から接見役として井戸石見守の通訳を兼ねた下僕として、久里浜に訪れる。しかし、英語に自身のない密は、黒船を見届けると直ちに脱走して、江戸に戻った。この告白は自叙伝『鴻爪痕』に記されている。その後、時勢を察知した密は、西洋砲術・航海学・英語などをまなび、31歳の時に薩摩藩に招かれて英語教師を務める。明治の世となると、その知識を買われ、新政府に仕官し、今日の郵便事業の基礎を築くこととなった。

130518前島密の墓@佐島2

130518前島密の墓@佐島4
「郵便制度の父」と呼ばれたこの人は日本の近代郵便制度の創設者の一人である事はもちろん
他にも様々な驚くような業績を残していました。
江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、その功績は多岐にわたります。

130518前島密の墓@佐島3
以下は日本郵政HPより抜粋。

・江戸遷都を建言
明治政府は新しい首都をどこにするか検討していた。前島密は、1868年(慶応4年)に大久保利通の大阪遷都論を読んで、これに対し、遷都の地はわが国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言した。この意見は大久保を動かし、その実現を見た。
・鉄道敷設の立案
前島密が明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられた。当時わが国には、その標準となるような資料は全くなかったが、彼は苦心の末に精密な計画案を作り上げた。のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したという。
・郵便創業
1871年(明治4年)3月1日、東京大阪間で官営の郵便事業が開始された。これは前島密の発議によるものだった。
そして彼は、大蔵省や内務省の官僚としての仕事をこなしながら、1870年(明治3年)から11年間もの長い間郵政の長として、熱心にこの事業の育成にあたり、その基礎を築いた。そのため「郵政の父」とたたえられている。
・新聞事業の育成
欧米社会を見聞して、広く世間の出来事を伝える新聞が必要なことを痛感し、その発達を助けるために、1871年(明治4年)12月新聞雑誌の低料送達の道を開いた。
・陸運元会社を創立
江戸時代から陸運業務と併せて信書送達を行なっていた定飛脚問屋は、郵便事業に強く反対していたが、前島密の説得を受け入れ、1872年(明治5年)6月に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立した。
・海運政策の建議
前島密は、海運の大切なことに着眼し、函館では自ら廻送業者の手代に加わって、その実務を体験した。
1872年(明治5年)日本帝国郵便蒸気船会社が生まれたのも、彼の意図によるものでした。
1875(明治8年)、大久保利通は、前島密の建言によって、画期的な海運政策を建て、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(当時「三菱商会」)を補助して、その政策を進めることとなった。
これが今日の日本郵船株式会社の前身で、近代海運はこのときから始まったといわれている。
・郵便為替を開始
1875年(明治8年)1月、郵便為替が始められた。前島密は、イギリスでの経験から郵便創業の翌年、経済拡大には郵便為替の実施が必要だと建議したが運転資金や取り扱い者の技術的な問題もあって、採用には至らなかった。しかし彼の熱意により、郵便に遅れることわずか4年で、その創始を見た。
・郵便貯金を開始
1875年(明治8年)5月、東京横浜の両地で郵便貯金の取り扱いが開始された。
前島密は、イギリスで郵便貯金が国民の生活や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、わが国でもこれを実施することにした。しかし当初は、なかなか一般に理解されないので、彼は私金を出して、それを貯金発端金として預けさせるなど、奨励には苦心した。
・訓盲院の創立
1876年(明治9年)に視覚障がい者の教育を目指す楽善会に入会した前島密は、杉浦譲など同志の人たちとともに私金を出し合い、訓盲院の設立に力を尽くした。
・日本海員掖済会の創立
1880年(明治13年)、海員の素質の向上とその保護救済などを目的とする日本海員掖済会を発足させ、その後も長くその発展に尽力した。
・東京専門学校の創立
1882年(明治15年)、早稲田大学の前身、東京専門学校が創立された。この学校は学問の独立を主張する大隈重信の発意で生まれたものだが、前島密はその創立に参画してこれを助けた。その後、1887年(明治20年)に校長に就任し、財政の独立など経営上の困難な問題の解決にあたった。
・電話の開始
1890年(明治23年)12月、東京・横浜市内とその相互間ではじめて電話の交換業務が開始された。
電話事業については、1883年(明治16年)以来官営にするか民営にするか議論されていた。
前島密は1888年(明治21年)逓信大臣だった榎本武揚の依頼で逓信次官に就任すると、官営に意見を統一し電話事業を開始した。

130518前島密の墓@佐島5
こんなに凄い業績を残していた人だったとは、ここを訪れるまで知りませんでした。
享年84歳。「縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」
という信条の持ち主でした。



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