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正確に言うと、灯台のあるほうが通称「アシカ島」。向かって左が「笠島」。
両方をまとめて「アシカ島」と呼ぶことも多いようです。
前々から気になっていたモノですが、東京湾フェリーで金谷に行く途中、かなり近くから見ることができました。
この日は誰も上陸していませんでしたが、ここは有名な釣りスポット。

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Google mapで俯瞰すると赤丸の中がそれです。

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この建物の内部には極悪人が幽閉されているそうです。
というのはうそですが、この建物の用途と内部には興味津々。
その昔、火力発電所からここを目指して泳いで来ようとした人が海流に流され、何人も亡くなったそうです。

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「1869(明治2)年月の夜半、嵐に乗じて密かに横浜港を出港した船がありました。目的地は上海、乗組員は外国人を含め約80人。
船が久里浜沖の海鹿島(あしかじま、昔はアシカが住んでいました)にさしかかったとき、暗礁に乗り上げ沈没してしまいました。
船倉には、当時の国際的通貨であったメキシコ銀が6万ドル、伊予別子銅山産のなまこ銅140万匁、青銅器40万匁、その他毛織物、生糸、小銃弾薬、仙台藩の53万両、
越後藩の黄金の灯籠、幕府御用金400万両などが隠されていたといいます。
その後、「浜には生糸が流れ着いた」とか、「海鹿島の南側は、確かに船のようなものが沈んでいて、今でも網がよく引っかかる」という漁師たちの伝聞を手がかりに、
多くの人が埋蔵金伝説の夢を追いました。
しかし、未だに決定的な遺物は発見されていません。」

歴史探検隊久里浜に行くより転載。

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フェリーが進むにつれ、小さな二つの島は重なりつつありました。
江戸時代はここにアシカがいたなんて…

絶滅への道
?)東京湾アシカ島の場合
1720年(享保5)以降 冬になると江戸から幕府の役人が浦賀に滞在し、15~20日間中による
アシカ狩りが 毎年、約100年以上にわたり行われた。どの程度の量かは不明。アシカは10m位
まで寄っても逃げない。 漁師は自主的にアシカに手を出すことはなかった。アシカは執念深く、
仇を討つという信仰があった。
 漁業技術の発達とともに、アシカが網を破るなど被害が出始め、明治中頃から漁師は、競っ
てアシカ駆除を はじめる。
 明治中頃ではすでにアシカを東京湾で見ることは難しくなった。1909年(明治42)の記録による
と、すでに アシカの住んでいる形跡がなくなった。明治40年代には銚子以南~伊豆諸島では消
滅した。

エッ、東京湾にアシカが・・・?! 「悲劇の海獣」ニホンアシカの絶滅より。

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海上にひざまずくラクダ。



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